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夏コミ前につき・・・・ [徒然なるままに]

もろもろ更新が出来てません(…猛暑でバテつつ原稿という状況のため)
30℃だと「涼しい!」とか思うあたり、既にどうかという今日この頃。

そんな折、すみませんっ! 
通販のご連絡を下さった方で、当方よりのお返事が届いていない方
(目安として、メール送信後一週間経っても当方よりお返事がない方)
迷惑メールに間違って入ってしまっているなどの可能性もありますが、
よろしければ、もう一度お問い合わせお願いいたします。

夏コミが経過しますと、既刊誌の冊数が変動し、場合によっては完売となってしまいます。

事前に、通販のご連絡あるいは、コミケ購入での取り置き希望などをメールでお知らせいただければ、
完売になる前に確保させていただきますので、
通販などを希望された方で、現在までに当方からの返信がないなど、お心当たりの方は、お手数ですが、よろしくご連絡お願いいたします。

なお、以下は、一応、選挙権を持つ者としての意見というか(言わないと『賛成になる』ということへの懸念から・・・。憲法改正の動きなどにご興味ない方や、改正大賛成! という方は・・・ご不快かもしれません。すみません。適宜、スルーしてください)


選挙よりも仕事や原稿・・・と言うのが、実生活なわけで、何かえらそうに言えるものではないのですが、やっぱり言うだけ、言っておこうと。


どんな政権であろうと「あまりに圧勝しすぎると、いくらでも何でも出来すぎて、ストッパーがかからなくなる」という問題がある。だから、ちょっと今の自民党圧勝の動きは、どうしたものかと思っております。

更に、やっぱり・・・・「憲法改正」を声高に唱える安部政権は、ちょっとなあ・・・と。

改正は国民が必要と感じたらすればいいのだけれど、「どうして必要なのか?」の説明が、ほぼない。

敢えて分かりやすいとすれば、維新の石原氏の言う
『今、憲法変えないと、日本は駄目になる』
という、『憲法のせいで、日本は今、こんなに駄目なんだ』という主張。

・・・なんで、『憲法』のせいで『今の日本が駄目』に『なった』のか????
については、非常に意味不明ですし、逆に『憲法を変えれば日本は良くなる』というのも『?????』なのではありますが、主張そのものはある程度分かります。

維新の方々の主張は要約すれば『日本人も死ぬ覚悟を持って、実際に人を殺す覚悟を持って国を守らなければならない。しかし、今の憲法は、それと真逆だから駄目』ということなので、あ~なるほどと。

個人的には、陳舜臣さんの「琉球の風」における琉球の人が
「薩摩人を相手にするには、負けるにしても戦わずに負ける方が、もっと酷い支配になるから、とにかく一度は戦わないと」
という理由で、平和だった琉球の人々が「薩摩との戦」への道へ行かざるをえない論理と少し似てるなあと。

この作品自体はすばらしい名作だと思いますし、それを言うなら、明治維新の頃に
「とにかく、このままでは植民地にされるから」
という危機意識で、必死に、富国強兵をした日本のあの時代の人々の心理にも似たものを「維新の会」の人々は主張しているのだなと。

ただ、「ちょっと、待てよ?」と思うのは、それなら順序が逆じゃないか? という点。

『憲法を変えなければ、この国は守れない(維新の会)』とか『日本を取り戻せ(自民党)』とかいう主張をするなら、その前に

①守れないというなら、具体的に、「何をしなければ、この国は守れないのか?」を明示すべきだし
②取り戻せというなら、これまた今、どれだけ「誰に何をどう奪われているのか?」と明示すべきでしょう

しかしそれが無い。

過去の琉球のように、あるいは、過去の明治維新の頃の日本のように「どうしても戦わなければならない危機」が本当にあるのならば、それをもっと主張してからの「改憲」ではないかと、私は思います。

個人的に、どうも「改憲」を主張する人に賛同しかねるのは、なんというか・・・
「理念の押し付け」感なんですね。

祖国を守らなければならない! その理念に賛同せよ! という感じ。

ちなみに、この「理念の押し付け感」は、実は「護憲派」なる人からも感じるのが困ったところでもあります。

何しろ、こっちは、こっちで『憲法は神!』と思っているのか??? というか、憲法教??? 九条教徒??と、こっそり揶揄したくなる、妙な理念が凄まじくて、その主張については、思わず後ずさってしまうので。

そうすると一番困るのは、「じゃあ、誰に投票すれば?」という受け皿がないところ。
本当に困る。

でも、それでも、やっぱりストッパーはあった方がいいと思うのです。

それは、あくまでも「私個人の事情」から。
だって、今の自民党の方向性が、そのままなし崩しにいかれると、一番困るのは、多分自分だから。

今、こんなこと自由に書いていられるけど、正直、同人誌のイベント会社などの表現の自主規制は、すでにかなり進んでいて、あれは駄目、これは駄目と、実際かなり息苦しい。


今の憲法の下ならOKのものでさえ、これだけ息苦しいのだったら、これが、自民党草案のように
「国のためになるようにみんな尽くしましょうね」の「理念強制憲法」になってしまったら、
ものすごく困るのは、私自身だろうなあと、本当に自分でそう思う。

やおいも、BLも、美少女エロも、禁断愛も、何もかも書くのも読むのも「不健全だから駄目」とか、あらゆる制限がかけられたら、すごくそれはつまらない世界だし、息が出来ない。


改憲=悪というのもどうかとは思うのですが、
今の憲法は少なくとも「思想・良心の自由」を守ってくれている点や、
政府の暴走をチェックする機能としての「表現の自由」を守っている点は、
この憲法が敗戦の折に制定されたものである点を考慮しても、評価すべきと私は思っています。


というか…
価値観の多様性=少数の価値観の自由を守ってくれる憲法でなきゃ、困るのですよ、表現者としては!

たとえば、
「近親相姦を煽るから、そういう表現は一切いけません」
といわれたら、歴史物のほとんどは書けなくなります。
古代エジプトとかローマものとか・・・読めないし書けない。なんて不自由!

いろんな価値観があって、いろんな考えがあって、それが全部「許されている」という現行憲法の「他者の自由を認めよう」という価値観について、私は高く評価します。

自分の自由を認めよという者は、他者の自由も認めよというものです。

そして、他者の権利を侵害しない限りは、その人は基本的には何をしてもいいという考え方です。

「こうでなきゃいけない」という理念の押し付けではないという、そういう意味での「理念」を持った憲法であることを、表現者としては強く望みます。

余談ながら、かつてレーニンが共産党一党独裁の方が優れていると考えたのは「優れた者に権力を集中させた方が国民にとって良い政治ができるから」だったそうです。

ヒトラーや、ナポレオン。スターリンだって、毛沢東だって、どの権力者だって、お題目は常に「国家や国民のための権力集中」です。

国のため、祖国のため、皆の幸せのため・・・・と、権力者は必ずそれを錦の御旗にします。

でも、そうして「じゃあ、お任せします」と、権力を集中させたらどうなるか?

結末は、明瞭
「権力を集中させて、為政者に自由に使えるようにさせると、それは必ず腐敗して、そのツケは一般国民に全部来る」というものです。

民主主義というのは、ある意味、非効率的な考え方ですし、まだまだ、発展途上のものとも思います。

それでも
「誰か一人の立派な人(あるいは、ある一部の立派な集団)が、完璧な政治をしてくれれば、その方が国民は楽だし、幸せになれる」
という発想は、とてもとても危険であることは、歴史が見事に証明しています。

ヒーローというか、英雄というか…そういう「強いリーダーシップ的な救世主願望」というものは、物語の中では爽快ですが、現実では英雄を祭り上げると、ろくなことがありません。

でも、「独裁者」を選ぶのも「不自由」を選ぶことも、ある意味、今の憲法では許されているのですよね。

だから、
「改憲して、もっと、表現にも規制をかけて、一定の『良いものだけ』が許される社会にしよう」
ということを、多くの国民が選ぶのなら、それはそれで仕方ないのかなとも思います。

ただ「私は、それは嫌」だというだけの話で。

何が善悪かなんて、時代によっても常に変わるものなのに
「権力者によって、方向付けされ強制される」という空気が、とてもとても困るし嫌なだけです。

なので、今は自由にまだ言えるので、発言しておこうとここに記しているわけです。


それにしても、自民党の草案やら、維新の会の主張を見るとなんというか・・・・・マイノリティには生きづらくなる発想だなあと、つくづく溜息が出てしまいます。

そりゃあ誰だって祖国は守りたいし、大事な人が傷つけられるのは嫌だし、自分が殺されるのも嫌だし、他国に侮辱されて嬉しいわけもないし、それは確かにそうでしょう。私だって共感します。

ただ、たとえば「国を守る」と言っても「どう守るか?」の方法は色々あるわけで、一足飛びに「軍備を持たないと!」「そのためには改憲だ!」「そのためには戦時統制権だ!」「それしかないっ!」「憲法改正だ!」的な発想そのものが、私は怖いのですね。

腰抜けと言われても、私は人を殺す勇気は持てそうにありませんし、他者に人殺しをさせる勇気も持てそうにありませんので、勇ましい発言には腰が引けてしまうのです。

私には無理です。

無理なので、主張します。

憲法というものは「理想」を掲げるものなのだから、理想だけでも「戦争放棄」してもいいじゃないかと。
理想だけでも、思想信条の自由や、表現の自由を、最大限に認めていいじゃないかと。

だって、私自身は、自分が戦争に行って人を殺す勇気は持てないから。
私には、戦争での人殺しを礼賛する表現を強要されることに耐えられそうにないから。

改憲したらすぐに戦争になると『誤解』されている、と、自民党の方々は良くおっしゃいますが・・・まあ、それはそうなんだろうなとも思うのですが・・・・

でも、方向性の問題なのです。

今改憲して、少しずつ少しずつ「祖国のために死ねる国民を作る」方向へと進むのが、怖い。
そういう価値観に覆われていくのが怖い。

一定の価値観のみに覆われてそれ以外を駆逐していく空気へと導かれるのが、とても怖い。

と、私は臆病なので思うのです。

現実には、もしも本当に「徴兵してでも防衛しなければ、どうしようもない」という世界情勢になったら、理想論なんて、吹っ飛ぶのは分かっています。

その時には、きっと、今、自由に何でも言えて書けて読めた『この時代』を、懐かしく切なく思い出すのでしょうね。

「ああ、あの時は良かった」と。

平和だったんだなあと、平和のありがたみをかみ締めるのでしょう。

ただ、おそらくその時は、もう生きるか死ぬかの世界なので、こんなのんびりしたことも言えなくなっているわけで、そういう「恐ろしい時代」が大前提なわけですが。


にしても、理想論ですが、「戦争放棄」と「思想良心の自由」と「表現の自由」を最大限に尊重したまま、平和で安全で住み良い世界を目指すということは無理なものなのでしょうか???

理想でも、理想だけでも、そういうことを願ってはいけないものなのでしょうか?

どうにも、今の「祖国を守れ!」的な勇ましい発言の方々からすると、そういう「武力を用いない平和構築」とか、「言論による権力の暴走の阻止」とか「(少なくとも内心だけならどんなものでも)思想良心の自由は守られる」という「理想そのもの」が「敵」とされているような気がしてならないのですが。

理想でも、いいんじゃないかなあ?

憲法っていうのは「こうあって欲しいなあ」という理想を詰め込んだものなのだから。

でも、そういう「理想論」そのものが、今は疎まれているのでしょうね。
その風潮そのものを、とてもとても残念だと、私は思います。
そして、この風潮に対し、何もできない、こうしてせいぜい「書く」ぐらいしか出来ない己の無力さ。

それでも、書くだけでも、記すだけでもしよう。
だって、私は表現者なのだから。
無力でも黙っているのは、賛同と同じだと分かっている表現者なのだから。

夏コミ原稿が書けるのだって、今の憲法のお陰なのは、確かに間違いないのだから!





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