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「二次創作」という言葉の響きと、パロディ作品の意味について [徒然なるままに]

すっかり定着した「二次創作」という言葉ですが、この言葉はどこから出てきたのでしょうか?

そもそも、「原作」というものがあって、それを元に何かが創作されていく。
これ自体は、本来、何ら問題のないもので、新たに出来たものは、新しい創作物であり、
その意味では「二次」というのは、どうも違和感が付きまとうのは私だけでしょうか?

おそらく、著作権がらみで発生した言葉だとは思うのですが、
もともと、著作権への理解そのものがかなり微妙です(このあたりは、古代魚幻想での「著作権色々」をご覧下さい)

著作権のルーツは「文化」の歴史のなかったアメリカが発明したもの。
つまり文化的なものを創作した者が全然、メリットがなかったら誰も文化を創ってくれない。
だから著作権という法律で保護をした。

ただ、その功罪については、どうも腑に落ちないところが多すぎます。
例えば、音楽でも物語でもなんでも。
今「新しい」と言われている全てのもの、どれであろうと「先人から学んでない」ものなどあるのでしょうか?

ない、と断言します。
ありえません。
文化の進歩は、先人から学んだものを消化吸収し、自分なりに咀嚼したものを更に高めていく以外にあるわけないではないですか。


ならば、二次創作とは?パロディとは?

パロディは、もともとは、あるものを面白おかしく風刺してきたという意味で、二次創作ではあるわけです。
でも、長い歴史の中で、パロディが悪だなんていわれるようになったのは、おそらくつい最近でしょう。

そして、変わりに生まれた言葉が二次創作。

「(原作者ではない自分の小説など)原作のレプリカですらない、まったく価値のないものなのです」
※これは、ツイン・シグナルというマンガを小説にして、原作のマンガとタイアップしてエニックスが出していた小説だったので、完全に合法のものであったものでしたが、それでも、最後に何があったのか、小説を担当していた北条さんは、そのように最後の小説の前書きにて語っていました.

「二次創作」という言葉からは、それと同じ響きを感じるのです。

でも、そうなのでしょうか?

ある作品を見て、感銘を受け、あるいは色々と感情を持ち、「自分だったら・・・・」と考え、そして、創り出すことは「原作=神」に比べて、それほどまでに貶められなければならないものなのでしょうか。


ごく個人的見解を言わせていただけるならば、二次創作あるいはパロディ、言葉はどうであろうとも、「ある作品を元に何かを創作する」ということは、その作品への一種のラブレターのようなものであり、その思いを外部へ発表するということは、文化を発展させたいならば、保護すべきこそあれ、卑下させるものではありえないと思います。

もっとも、「ドラえもんの最後」というタイトルのパロディマンガを描いた人が、小学館から莫大な損害賠償請求をされ、それに応じたという話を聞くと、また、色々考えるところでもありますが。

小学館から(確か1000万円以上??)の請求と、以後、その出版をしないことと約束させられたということは、よほどに、その作者の描いた、その作者の「ドラえもん」の世界は、少なくとも多くの人々の心を掴むほどに良くできていたのでしょう。

結果的に、その作品のために「ドラえもん」の権利を持っていない者が大儲けしたために、大問題になったのだとしても、やはり釈然としません。


もっと大胆に言うなら、誰がドラえもんを描いたっていいじゃないかと思うのです。

それで、どんどんいつまでも誰もの心に残るものになるなら、最初の作者が誰であったかなど、どうでもいいとさえ暴論とは思いますが、すでに、藤子先生が亡くなられた今でさえも、他のスタッフによって、ドラえもんは創られているのですから、違いは単に「著作権」を持っているかいないかだけであり、そして、著作権という法律の歴史はあまりに浅く、かつ、あまりに金儲けたるビジネスと密着しすぎている。


そこに問題があるように思うのです。

小学館は自分だけが儲けたかった(まあ、自分が投資しているのだから、それは当然の帰結かもしれません)。

ただ、「ある者だけを儲けさせる」というシステムたる著作権というものは、果たして、文化にとって良いのか、いつもいつも疑問に思わざるを得ません。

だって、著作権が切れている、あるいは、その保護の範囲外の作品については、いくらでも、パロディは今も創られ続けているのですから。

現在、作品として発表されているものに対してだけ、それをベースとした何か新しいものを創作することを禁じるということは、どうにもこうにも納得しがたいですし、また、その創作活動を「二次」として、卑下する風潮もなんだか納得ができないのです。

何か面白いものがあったとき、その先を考えてることは悪なのでしょうか?

その作品から色々と追想して、更にそれを形にして、ひいては他の人に見せることは「著作権違反の違法」の一言で切られていいのでしょうか?

著作権法があるから違法だから、こっそりやってます・・・・・・・という卑屈なる世界に文化の進歩はないでしょう。

実際、現在、「面白い!」と思える新しい作品は、本当に少なくなったなあと思います。

そりゃあ、そうでしょう。先人(それも直近の)から学ぶことは悪だと言わんばかりの風潮で、より素晴らしいオリジナルなどできるわけがないのですから。

・・・・・・・・モーツァルトの音楽なんて、好き放題みんなアレンジしまくっているのにね。それで面白いじゃないですか。それだからいいんじゃないですか。


他方で、創作者なる人達が古典も含め「他者のものを読まない風潮」というのも気にはなりますし、「これが好き」という人々が「私は、あなたとは、ちょっと違うなあ・・・・」と思う人を極端に排他的なまでに嫌悪するのもどうかとも思いますが。

好きがあれば、嫌いもあるでしょう。

発表とはそういうものでしょう。

私は、どうも夏目漱石が、どうしても好きになれませんが、多くの人々が彼の作品を愛していることを否定する気はまったくありません。単に、価値観が違うんだろうなあと思うだけです。

逆に、私は、森鴎外の文体や考え方などがとても好きですが、知り合いは「しかし、彼は医者としては最低で、死人を多く出したんだ」と低い評価をします。それもまた、そうだろうなあと思います。


好きも嫌いも、発表(口頭であれ、何かの媒体であれ)した以上は、反応がありうるのは当然でしょう。

「あの人が好き」と誰かが言うのに対して「私は・・・ちょっと・・・・」と言っても許される世界が私は好きです。
少なくとも、日本にいる以上は、その程度は憲法の思想良心の自由、及び、表現の自由の範囲内で認められているものです。

「天皇なんか嫌いだ」というのを弾圧できたのは、戦前の日本です。
「キム主席を尊敬せねばならない」というのは、現在の北朝鮮です。
また、ミッキーマウスの絵を子供の部屋にお父さんが描いてあげるだけでも、ディズニー社から莫大な損害賠償をされるのはアメリカでの話です。日本では、そこまではまだ著作権は暴走していません。

更に、性描写なら、江戸時代の浮世絵の大らかなこと!
ただ、これもお上によって、制約されたり大変だったようですが。

そして、典型的なのが「チャタレイ夫人の恋人」の発禁処分。
今、ようやく解禁され全文を読んでみれば、何故、平成まで延々と禁止されていたのか、首を傾げざるをえません。

更には、面白いのがこのチャタレイ夫人の恋人の物語には、数多の「その後のチャタレイ夫人」というパロディ作品があったということです。

寡聞にも私自身は直接読んではいないのですが、とある方の書評はとても興味深かったです。
「数多あるチャタレイ夫人のその後を綴った物語のほとんどは、原作の深さには到底及ばないが、しかし、それぞれの作者の思いというものは、何故か興味をそそられ、中には、なかなかに良く出来ており面白いものもある」

そういう「同時代におけるパロディ作品の自由化」

著作権の保護がいらないとは言いませんが、同時にパロディ作品もまた「二次」ではなく、新たなる文化創出の一つなのだと権利を認め、保護すべきではないでしょうか。

逆説的ですが、二次創作ですと明言される方々が、他方では、自分の「二次創作」における絵や文章の「パクリ(無断転載)」を禁じると表記しているのは、ある意味不思議です。

「二次」つまり「原作」ではないから保護の対象外のものであり、違法なもの、でも、大目に見てください・・・という趣旨なら、発表したものが他の人々に、もっていかれても怒る必要はないのでは?と思いますが、皆さん、怒りますよね。まあ、勝手に転写された上に、それがその人の作品ですなどと言われたら、誰だって怒るでしょう。

でも、それは「他者の作品を自己の作品」とすることへの怒りであって、その意味では、二次といいながらも、無意識に誰もが、その作品は「自分固有の作品」だと認識しているこの矛盾。


少なくとも、現状では二次創作ですと言ったところで、例えば、小学館相手には全然免罪符にはならないのですから、言うだけ無駄と断言します。

ただ、あるものをベースに新しいものを創ること。
これを否定する権力があるなら、これと戦うだけの気概と覚悟をもって、この著作権がいつの間にか肥大化した現代において活動すべきではないかとは思います。

裁判上等! ぐらいで。

実際のところ、作品を読んでもらえばわかるはずです。

「パクリ=無断転載」か「新たなる創作」か。

あ、でも、裁判官は文化とは遠い人達という話ですから、負けは覚悟しないとダメですけど。
(色々常識がないから、国民に常識ある『裁判員』となって、刑事裁判にて判決に参加しろというのを強制する法律ができたのでしょう? 皮肉ですね)。

でも、チャタレイ夫人の恋人を翻訳した伊藤整だって、戦って戦って負けたのだから、本来、発表者とはそういうものなのでしょう。


それが、性描写であろうと、「著作権違反」と言われる二次創作なるものであろうとも。

発表するなら戦う意思がなければならない。
それがないのに、でも、発表したい。できれば、礼賛も欲しい。
更には、自分と違う意見や感想を書いている相手へは、容赦なく否定し排除する。
自分が居心地がいいことだけを求める。
他者の思考もまた自分と同じであることを求める。違いを許容しようとしない。
それは、ちょっと甘いんじゃないかな? とも思うのでした。
発表するなら、批判は甘んじなきゃしかたないでしょうと(でも、ある表現については、それ本当に違法?というのが疑問なだけで)

ある意味、やりたいけど怒られたくない。
そうした卑屈な心理の結果「二次創作」という言葉が生まれたのかなとも。

堂々と、「~~~という作品から着想を得た作品です」でいいじゃないですか。
ダメっていうなら、法律がおかしいと思います。

文化を殺すつもりですか? 著作権という法律の乱用でと。
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